2007年9月25日火曜日

そんな私の一日も、それを真似てはキャプションなどつけてみた。



小池昌代の「タタド」を読んだ。一晩でぐいっと最後まで。うん、おもしろかった。

初老に差しかかった男女4人のやりとりと終わりとはじまりを書いた表題作「タタド」も。海に囚われて変わっていく夫と自身の頼りなさを書いた「波を待って」も。友達夫婦の黴臭いマンションで名画にキャプションを付け続ける「45文字」も。

読みながら、それぞれの物語がその「場」の力に支配されているような感覚を持つ。「タタド」では夏みかんがぼとぼと落ちる海の家。「波を待って」は風、砂、水、光にどんどんと侵食されてしまう波打ち際。「45文字」は、黴臭いマンションと、記憶の中の競技場。

場所の持つ力。磁場のようなモノの前で、人々は少しだけタガがはずれる。静かにひっそりと足を踏み外す。その動き出す様が好ましい。そこには女性作家特有の「怖さ」や「生身」な感じが実に薄い。そこも好もしい。

海辺であらゆる色味が乱反射してなくなってしまうように、この本もなんだか淡い。淡いけれど、確かに濃く影は残る。何かがあった記憶が、まざまざと焼き付けられているようなそんな後味。誰かの遠い話しを聞くような。私の遠い記憶を紐解くような。耳を澄ませば波の音が聞こえてくるような。そんな心地よさに包まれて、つかまえ所がないまま読み切った。

窓からは大きすぎる月がのぞいてる。今夜は、満月、お月見の夜。

自転車で走っていた川沿いのいつもの道に、一塊の彼岸花がわっと咲いてた。毎年毎年、誰に教えてもらう訳でもなく、季節を過たず花をもたげる彼岸花。その規則正しさ律義さ、もっと言えば融通の効かなさみたいなモノに感心を覚えずにはいられない。役割を心得た寡黙な花。企みを秘めた不埒な花。

昨日読み切った短編、絵画を眺めてはそれにキャプションをつけていく「45文字」を思い出す。フェルメールの「牛乳を注ぐ女」。「注意深く牛乳を傾ける女。すべてが静止している清潔な室内で、落下する牛乳の筋だけが動いている。」その空気の澄む様まで見えるようだ。塵ひとつ動かないまだ早い朝だろうか。きっと季節は寒いはず。

そんな私の一日も、それを真似てはキャプションなどつけてみた。やっぱり私も、(ほぼ)45文字。

「不意に薮から溢れ出る今年もここに彼岸花。役割を心得た赤の律義さよ。企みを含んだ赤の静けさよ」

毎日をいろんな大きさに切り取ると、切り取ったというそのことで、それぞれは少しづつ意味合いが変わっていくようだ。俯瞰だったり。ズームだったり。人事だったり。どこか遠くの出来事だったり。それはカメラを構えたくなる私の気持ちと少し重なる。重なって軽くなる。

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