2007年10月24日水曜日

それはもちろんすごく個人的なことで、カーヴァーの責任では、もちろんない。



久しぶりにカーヴァーを読む。


「Carver's Dozen」。そこに選ばれた小説をとってみても、村上春樹の添え書きをとってみても、構成をとってみても、すべてにおいて良くできている本だとあらためて感じる。

カーヴァーの本には幾つかの食べ物が出てくる。

ありふれたシンプルなアメリカの食べ物ばかりだが、私はそれを読むのが大好きみたいだ。シーザー・サラダ。ボウルに入ったスープ。エクストラのパンとバター。ラムチョップ。サワー・クリームをかけたベイクドポテト。チョコレート・シロップを添えたヴァニラ・アイスクリーム。特別に飾り立てる言葉もないのに、舌なめずりをしたくなる。私も同じモノを食べてみたくなるのだ。村上春樹に惹かれたきっかけも、彼の食べ物の書きようが、とても美味しそうだったからだったなと気が付いて少しおかしくなった。私は誰かの描く、当たり前の食事や生活の中の食べ物が、つくづく好きなんだなーと思う。

カーヴァーの作品は、イヤな予感が漂っている。

何かが起きる予感、予兆が、抑えたトーンで書かれている。これから何か悪いことが起きるような、根拠のない軽い胸騒ぎを覚えずにいられない。それが私には少し辛くもある。物語も人生も、時に私の手に負えない。「運命」という言葉を私は好んで使いはしないが、それを感じずにはいられない。この本には時には残酷な人々の「運命」が書かれている。人は自分の存在を越えた大きなモノの前には、いつも無力なのだな。 時には情けないほどに。

カーヴァーの物語の終わらせ方を読んで欲しい。

カーヴァーはある時点(まさに点のような)から、物語の色合いがガラリと変わってしまう。取り返しがつかない、自分の力ではどうにも出来ない方向へ話は、ぐいっとねじ曲げられてしまう。抑えたトーンが一転する。そこに突然投げ出された感情に、私はいつもどぎまぎとしてしまう。戸惑ってすくんでしまう。目を反らしたくなってしまう。淡々と出来事を見つめていた目が、突然私自身に向けられる。「じゃあ、お前は?お前はどうなんだ?」 その問い掛けに私はいつも言葉をなくして立ち尽くす。

カーヴァーが好きですか?そう聞かれたら、私はなんて答えるだろう?Yes or No? んん?答えになるのか分からないけれど…そう前置きをしてから、私はきっとこんな風に答えると思う。

カーヴァーの本は、私にはすごくやっかいな代物だ。

カーヴァーの文章は、私の一時期の暮らしを、まざまざと思い出させてくれる。それはもちろんすごく個人的なことで、カーヴァーの責任では、もちろんない。「ダンスしないか?」の中の娘が、会う人ごとにその話しをして、伝わらない何かが残って、何とか言葉にしようと試みたけれど、結局あきらめてしまったのに似ているのかもしれない。私はもうあの時の出来事を、誰かに伝えることを諦めている。誰とも共有できないことを知ってしまっている。それは悲しむことではないけれど、事実として横たわり、動かしようがない。ただ知っている。それだけだ。それ以上どうしようもない。 それだけだ。

それでも「ぼくが電話をかけている場所」を読んで欲しい。

私はいつも胸が熱くなる。誰かに伝えずにはいられなくなる。「アルコール中毒診療所」での、発作がいつ訪れるかも分からない、飲んだくればかりが一時身を置くその場署から、カーヴァーは「生き延びる」という、シンプルな欲求を思い出させてくれるんだ。

生きて行くことは、しんどいことだ。

それじゃあそれを「生き延びる」に変えてやろうじゃないか。と気付かせる。「生きて行く」から「生き延びる」に。「生き延びる」は獣の領域。もう一度獣に戻って生き直そうよ。アタマとカラダをフルに使って、あの頃の自分を思い出そうよ。

大きな風邪をひいてしまって、まだ微熱の下がらない私だけれど、今夜の私は自分の中の獣の匂いを嗅ぎ直してる。今夜の私は鰐のようにしたたかでしなやかかもしれない。などと、不意に思いついて、にいーっと笑ってみたりする。まさに鰐の微笑みで。にいーっとにいーっと。野蛮なまでの生命力みたいなの?思い出したよ。生き延びていく私みたいなの?思い出したよ。

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